行政の将来を考える会

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第42回例会「日本の司法制度はいかにあるべきか−現場からの視点」
(三井安田法律事務所弁護士・洞けい敏夫氏)
6月28日、行政の将来を考える若手の会第42回例会が開かれました。今回の例会では、『日本の司法制度はいかにあるべきか−現場からの視点』をテーマに、三井安田法律事務所弁護士の洞けい敏夫氏を講師としてお招きし、29名(講師を含む)が出席して意見交換を行ったところ、主要点は次の通りです。

【目次】

1.洞けい氏講演(日本の司法制度はいかにあるべきか−現場からの視点)
(1)はじめに
(2)これまでの議論の状況(司法制度改革審議会等での議論)
 (イ)人的基盤
 (ロ)制度的基盤
(3)問題が解決されてこなかった原因(プロフェッショナリズムの光と影)
 (イ)人的基盤
 (ロ)制度的基盤 ((a)民事裁判 、(b)刑事裁判、(c)行政裁判

2.質疑応答
(1)裁判に時間がかかりすぎるのは解決できないか
(2)陪審制度は必要か
(3)司法の本質は真実発見である
(4)刑事と民事を分ける必要があり、民事では準拠法に配慮せよ
(5)日米独禁法融合の影響如何
(6)裁判のコストパフォーマンスを考えよ
(7)司法と立法・行政の関係はいかにあるべきか
(8)裁判官・検察官の心証形成の相場はどうなっているのか
(9)ロースクール構想の目的

【本文】

1.洞けい氏講演(日本の司法制度はいかにあるべきか−現場からの視点)

(1)はじめに

 司法について今回行政会で初めて取り上げられたが、これは非常に大きい問題である。
 私は裁判官を8年間勤め、うち3年間は最高裁事務総局で司法制度問題を担当し、その他1年間ドイツで陪審・参審制の現状視察を行った。また、弁護士になってから3年アメリカでの実務を経験した。
 司法制度改革問題については、他にもふさわしい講師があり得るとも考えたが、弁護士・裁判官を経験し、独、米の司法制度を多少なりとも見聞してきたということで、これまで必ずしも注目されてこなかったような観点も踏まえて問題提起できるところもあると思い、今回の講師を引き受けた。(2)これまでの議論の状況(司法制度改革審議会等での議論)

(イ)人的基盤

(a)人的基盤の中では、法曹人口の問題が一番大きい。法曹人口が日本では2万人を切っているのに対し、米国では100万人に近づいている。日本では司法制度上の問題が未解決になってきた背景には、法曹の数の制約という問題があったのではないかという問題提起がある。また、合格者の数が限られている現行の司法試験制度を改め、新たにロースクールを設けて米のように大学院レベルで勉強した人が法曹資格を取れるような制度を考えたらどうかとの議論もある。

(b)法曹一元論とは、大学を出て司法研修所で2年なり1年半なりを司法修習生として過ごした後にいきなり裁判官になるのではなく、まずは弁護士として法曹としての経験を積むなどしてから裁判官になるべきとの議論である。

(ロ)制度的基盤

(a)まず、国民がより利用しやすい司法の実現が課題である。まずは国民にとって最初に接触する弁護士が、制度として本当に使い勝手の良いものとなっているかを考える必要がある。

(b)民事司法のあり方については、民事裁判は本格的に争うと結構時間がかかるので、その迅速化が課題である。また、医療過誤事件等においては専門的知識の活用ということで、医師等の助力を得られないかというようなことが問題提起されている。また、司法と行政の関係では、過度の司法消極主義により、違憲立法審査権、行政のチェックが現実に機能していないのではないかとの議論がある。

(c)刑事司法のあり方については、オウム裁判のように、何年もかかる裁判がある中で、迅速な審理が可能かが問題となっている。また、外国人を含め、被疑者・被告人の支援体制が問題である。特に、被告人になってからでなく、逮捕された被疑者段階から当番弁護士制度という公的弁護士制度を法的に整備すべきではないかとの問題提起もある。

(d)最後に、国民の司法参加として、陪審・参審制など一般の人が何らかの方法で裁判に参加することが検討されている。陪審制は、陪審員に決めてもらうもので、参審制(独仏等)は素人と玄人が合議体を形成して決めるものである。

(3)問題が解決されてこなかった原因(プロフェッショナリズムの光と影)

(イ)人的基盤

 弁護士が増えれば、いろいろな経験を踏まえた人が裁判官になるということについてはある程度のコンセンサスがあると思う。他方で、裁判官・検察官(官)と、弁護士(民)は、それぞれ相手方の増員は求めながらも自らの増員には必ずしも積極的ではなかったうらみがある。
 人的基盤は次にみる制度的基盤を考える前提ともなるものであるが、数を増やすことは必要だということで大方の合意は得られるのではないか。

(ロ)制度的基盤

(a)民事裁判

 民事裁判を巡る議論の中心はその迅速化にある。迅速化が最大の課題であることには異論はないであろう。しかしながら、民事裁判はただ単に早ければ良いというわけではない。早ければそれでいいというのであれば、立法ですべての裁判は立証は半年以内とし、それで決まらなければくじ引きで決めるなどとすればよいということになりかねない。そうならないのは、司法では真実の発見が根幹にあり、真実を発見しそれに法律を適用することで解決すべきであるという根本的な考えがあるからである。
 しかし、日本の民事裁判は、真実を発見するのに本当に適合的な制度・運用になっているか疑問がないわけではない。戦前の日本の制度は職権主義で、裁判官がリーダーシップをとって審理を進めていくものだった。これは独の制度を入れたものである。独では弁護士のところに依頼者が来るが、弁護士は依頼者の訴えを法的に構成して訴状を作成し、これに証拠を列挙するだけで、証拠には事前に接しない。裁判所が証人を呼び出し、法廷では裁判官が質問していくが、弁護士は限定的・補充的に質問するのみである。事前に弁護士が証人に接して打ち合わせることは証言内容に事前に不当な影響力を及ぼしかねないということで禁じられている。このような比較的「軽い」手続の後、裁判所が淡々と判断を下すことになる。これはこれで一つの制度であろう。
 戦後は米流の当事者主義が導入された。両当事者が対立して、証人に対していろいろな立場から尋問してその中から真実が出てくるという考えである。証人申請する側は、入念な証人尋問の準備をする。これをやるのであれば、人的な整備、相当数の弁護士数の確保が不可欠である。戦前の制度に比べて格段に当事者(弁護士)が果たすべき役割が重い制度を導入したはずなのに、担い手である弁護士数の在り方についての見直しが行われなかったのは問題があったのではないかという恨みがある。
 このような経緯をも踏まえると、今般の民事司法制度の改革の議論においては、「迅速」ということのみならず、ある意味で、戦後の大改革当時にやり残された「充実した審理」を可能とするような人的・制度的基盤の整備ということも真剣に議論されるべきであると思われる。例えば、米ではディスカバリーという制度があり、裁判前に、当事者間で手持ち証拠の開示を行うことになる。そのため、当事者間で、争点をしぼりこむこともでき、審理開始後の証人尋問等も単なる推量も含めて「だめもと」で質問するというのではなく、客観的事実関係に即した充実したものとすることもできる。そうなると、結果的に、無駄な審理を省き、迅速な審理の実現にも資することになる。これに似た制度としては、日本では文書提出命令の申立てがあるが、その範囲は限定的であり、ディスカバリーと比肩できるものではない。
 今般、ディスカバリーのような制度を日本でも導入しようという意見があり、充実した審理、迅速な審理の実現という観点から意味のある提言であると思うが、これを実現するには、母法国の米がそうであるように、これを担うだけの相当多数の弁護士が必要である。短期間に大量な証拠を分析するということは、今の日本の法律事務所の人的体制では無理があるのではないか。

(b)刑事裁判

 自分が裁判官として勤めた8年間の大半は刑事裁判官であったので、刑事裁判については様々な思いはあるが、遠目でみるならば、やはり、有罪率が99.9%を超えるのは普通ではないことであると思う。また、捜査については、いいか悪いかをひとまずおくとしても、自白偏重といわれるような現実があることも否定できない面がある。また、オウム裁判のような一部の難件については、時間がかかるのには様々な理由があるにせよ、やはり、審理に数年以上を要するというのは、国民の目からは理解しにくいことであろう。 かつて、独、米の刑事司法の実情に詳しいある日本の検察官と議論をして意見が完全に一致したのは、起訴するときの心証度(被疑者がどの程度の確度で犯人だと思われるか)が、日独米で全然違うことである。米は5割超えたら起訴するのではないか(ここでは、起訴・不起訴を決める大陪審の議論にはふれない)。独は80%程度と思われる。これに対し日本はどうか。100%であろうか、いや、そうではなくて、「120%」ではないか、というのが一致した意見であった。絶対犯人だと思っても、少しでも証拠が欠けており、裁判官によっては無罪になるかもしれないということであれば、起訴しない。精密司法と言われるゆえんである。
 自白重視については、上記のような、「高い心証度」と不可欠に結び付いているように思われる。「高い心証度」を達成するには、自白を得て、自白通りの状況証拠が発見されるのが一番いい(例:自白通りの場所から凶器が発見される)。こうなると、「犯人に間違いない」ということになる。それゆえ、日本では、捜査段階において自白獲得に過度な情熱が傾けられがちになる。
 自白偏重は、人権侵害のもとであり、誤った自白が引き出されると誤判につながるといわれる。これはその通りであるが、だからといって、日本の捜査も客観証拠の収集だけでいいということにはならない。「高い心証度」ということは無実の者を処罰しないという意味で人権を重視した発想であるが、これを同じく源として、人権侵害にもつながりかねない「自白偏重」ということも帰結されているからである。今の刑事司法に問題があることは確かだとしても、逮捕されたり、厳しい取調べを受けたりはしないものの、ある程度の客観証拠だけでいきなり有罪になってしまうような刑事司法は誰も望んでいないであろう。このあたりに刑事司法の制度論の難しさがある。

(c)行政裁判

 行政裁判については、「行政追随」、「司法消極主義」などといわれることがある。本来の行政の在り方を真剣に検討することなく、安易に、行政の結論を支持してはならないのは当然である。ただ、裁判官は一人一人が独立であり、個々の裁判官の判断は区々に分かれることがあり得る。それゆえ、行政の統一性が要求される分野であっても、裁判になると、いろいろ判断が分かれ得ることになるが、本当にこれでもいいということについてはコンセンサスができあがっているようにも思われない。
 これは行政裁判に関する問題だけではないが、このところ、「事前の(行政による)調整から事後の(司法による)チェック」とよく言われる。しかし、過度の行政指導に問題があったにせよ、本当に司法による事後チェックがこれに代替するものとして一番ふさわしいのであろうか。司法判断は事後的にしか行われないし、下級裁レベルで判断が分かれるのであれば、これが上級審で統一されるにはさらに時間がかかる。その間、かつての行政指導全盛のころにはなかった混乱が生じることにもなる。やはりルールは事前に明確になっているのが望ましい社会の在り方ではないか。その意味で、これからは、立法の役割が非常に重要であると思うし、適時に適切な立法がなされるよう行政が行うべきことも多いように思う。

2.質疑応答

(1)裁判に時間がかかりすぎるのは解決できないか(質問)私は自治省で地方公務員労災担当をしていた時に被告になったが、日本で訴訟が長いのは裁判が始まってから裁判らしい裁判が始まる時間が長いからだと思う。口頭弁論、証人弁論が始まると裁判らしくなるが、その前の、証拠を提出し、事務書面を出し、次は何時会おうかと皆が集まって期日の相談をするなど、本格的な裁判までの時間が長い。このようなことは電話で済ませられると思う。このような形式的な手続は市民感覚と違うと思うが、どうしても必要か。

(意見)平成10年の新民事訴訟法の施行により,事前に十分争点を整理した上で審理を行う制度は整った。あとはこれを運用する側の問題である。実際に裁判にかかわる裁判官や弁護士にも色々な人がおり,中には安易に流れてしまう人もいないではない。そうしたことの結果,審理が長引くことがある。

(洞けい氏)現場ではいろんな工夫が行われていると思う。なお、質問とは離れるが、よく、裁判遅延は、裁判官の数が足りないからではないかと言われるが、これは正しくない。裁判官が不足していれば、裁判所の未済件数は増えるはずだが、そうではないからである。

(意見)裁判で負けそうな見通しになったら,不利な結果を受けるのを先延ばしにするために,戦術として訴訟の引き延ばしを図る当事者もいるようである。

(2)陪審制度は必要か

(質問)陪審制度の導入が司法制度改革の大きなテーマの一つになっている。私が米国のロー・スクールに行った時、ロドニー・キング事件、O・J・シンプソン事件の裁判があったが、当時米国では、心証形成が上手な弁護士が勝つという陪審制度に対する反省があった。それにも関わらず、日本では陪審制度の導入が議論されており、違和感を感じる。なぜ陪審制度が必要なのか。

(意見)陪審制・参審制に限らず、司法制度改革が現在問題になっている背景は、昔から小さな司法(法曹人口、予算とも)を前提にしており、皆が司法を使ったら困るとの市民感覚もあり、弁護士、裁判官、検察が現状維持にあぐらをかいてきたからである。国会の付帯決議で司法制度は法曹三者が議論して結論を出せとなった。しかし、国民は司法を使うのは国民なのになぜ法曹三者で決めるのかという意見である。
 平成10年に、中坊氏が司法改革を打ち上げて大きな流れが出てきた。しかし、経済界は司法改革支持をぴたっとやめた。これは、司法が消極的で、今のままの方が良い、おばけのように大きくならない方が良いと思っているからである。
 自民党は参審制がよいのではないかとの意見である。最高裁も含め、陪審制には反対が多い。弁護士会がなぜ三振、陪審にこだわるかというと、市民参加である。同じ判決、同じ思考回路でやっているのはよろしくない。批判の中で、キャリアシステムでなく、市民の中での司法を考える。弁護士会は、参審制が典型的な突破口と思ってでやっている。

(3)司法の本質は真実発見である

(意見)司法の本質は真実発見かという点について話したい。米国の制度が本当に良いのか、米の司法は危ないのではないかという意見が最近出てきている。米国では、真実がどうであれ、手続き的に皆が正しいと決めたことに従っている。これが司法の本質としてよいのか。裁判は、やはりだれが本当かということにしないといけない。パフォーマンスで真実が作られるようにはしたくない。それと司法改革がどう絡むかが難しい。
 なお、現在、司法制度改革論議の中で、行政手続法を抜本的に変えようということになっている。行政法は難しく、訴える利益がなくはねられるので数が少ない。行政も司法の市民の批判にさらされながら強くなる。このような時代が近い将来必ずくる。

(4)刑事と民事を分ける必要があり、民事では準拠法に配慮せよ

(質問)刑事司法と民事司法を分ける必要がある。刑事はその国、地域、文化、人と人の関係など、根強く反映している。刑事の世界では、米型、欧州型など模範にする必要は全然ない。むしろ、日本に土着化した日本固有の刑事司法制度を枠組みを変えずに裁判制度の中に組み替えていくことが重要である。
 しかし、民事司法については、経済・社会活動が単に日本の中だけでは済まなくなってきており、企業活動は世界中に広がっている中で、好むと好まざるとにかかわらず、取引上のトラブルなどは不可避である。その時、日本の法曹界に望むのは、やはり日本のやり方が良いと決めるのは簡単だが、もし日本が本来のあり方だと考えるのであれば、どう欧米法体系と戦って、日本の法体系を世界にいかに広めるかを考えてほしいということである。過去10年間、eコマースやデリバティブをやっていたが、これを規定する法は日本法でできる。法曹界の方に、これを考えていただきたい。新しいこと、付加価値の高いことをやると、アメリカの独壇場であるが、可能なら日本語で日本法、せめて英語で日本法でやりたい。しかし、現在日本法は問題外である。米法で戦うのはしんどい。法曹界だけでなく、いろいろな世界でグローバルスタンダードの戦いがある。その代表は通信やソフトウェアである。法曹は人類最古のソフトウェア産業であり、日本という家に閉じこもらず、新しいビジョンを持って、米欧やアジアに広げていって欲しい。それにより初めて日本のビジネスマンもフィフティフィフティで戦えるし、それが法曹の利益にもつながる。弁護士は法曹人口が増えると飯がくえないというが、土俵を広げれば活動の場も増える。

(意見)準拠法をどうするか苦労していると思う。日経新聞特集の「司法と経済」に書いてあったが、米は司法自体を売り込んでいる。ロイヤーと政治家が結びついている。他方で、日本は法曹の問題は法曹の世界で解決せよという話になっている。これからは、国も自国の法制度を輸出しなければならない。法曹三者の内輪で議論することを期待してもダメである。ビジネスマンや行政官が、いかに司法を強くするかとの発想で取り組み、国を作っていくのが先決である。

(意見)私は80年代に銀行員になったが、反省を込めて言えば、銀行・商社・メーカーも国際部門にいる自負として、米法、英法で文書作成ができるのが当たり前と思っていた。今考えると、この取引は日本法でやろうということで通った機会が結構あり、それを逃していたと思う。

(洞けい氏)日本がアジアでプロジェクトをして、日本の銀行、商社、建設会社が主な関係者ということがあるが、なぜ、日本円、日本語、日本法で契約書を作成できないのかということが話題になることがある。一部に日本以外の参加者があれば、日本語で契約するのには無理があるので英語ということになる。では、準拠法は、というと、少なくとも金融等の国際的なビジネスでは、英米法(イングランド法かNY州法)が世界標準になっており、日本法という選択肢はあり得ないというのに近い状況にある。本来、日本法にもいいところはいっぱいあると思うが、もはや世界標準は英米法で決まってしまったという感がある。

(質問)自分は欧州を見てきたが、ドイツ人、イタリア人は準拠法の問題で苦労しているのか。

(洞けい氏)イタリア、ドイツ人も同様の問題を抱えていると思う。国際取引となると、欧州はロンドンのロイヤーの独壇場ではないか。ドイツの法律事務所というと、100人も弁護士がいれば大事務所だと思うが、ロンドンの事務所は1000人単位の弁護士を擁しており、欧州の主要国に、各地の法律事務所と提携を組むなどして進出している。

(質問)刑事と民事を区別すべきと言う点について、また改革についての意見に納得することが多いが、米のような訴訟社会がワークするか、陪審制などワークするかについては疑問である。
 昔の小さな司法について、刑事は文化に根ざすということになるほど、と思うが、欧米については、刑事、民事を分けて、刑事のみディスカバリーにするのは可能か。

(洞けい氏)いろいろな裁判の分野でいろいろな改革があってしかるべきだ。米の制度をそのまま日本に取り入れた方がいいとは思わないが、日本も精密司法の名に象徴されるような一つの極端に行きついた気もする。中間のどこかに方向性を定めるような改革はあり得ると思う。


(5)日米独禁法融合の影響如何

(質問)受託調査をやっている中で、独禁法の調査を2年やった。日米独禁協力協定をやり、日米独禁法の融合(コンバージェンス)を調べたが、それが上陸した場合にはどうなるかも調べた。現在議論はどうなっているのか。

(洞けい氏)法律論をしている限りは「融合」はそれほど困難ではないかもしれない。執行レベルでも協力体制が進んでいる。問題は、実務である。刑事司法における心証度の高さという話をしたが、これはカルテルの扱いについても当てはまる。日本でのカルテルの立件数はこのところ増えてはいるが、まだまだ見逃されているものも多いのではないか。「一罰一戒」になってない。日本の刑事司法における「意思疎通」の立証の困難性が影響していると思う。 談合大国といって日本は海外から批判されることがあるが、政府が談合を奨励しているとか、日本の法制が甘いとか、そういうことではなく、刑事司法一般に通じる問題がある。

(6)裁判のコストパフォーマンスを考えよ

(質問)今の司法制度調査会は昔からの議論を繰り返しているが、私の感覚だと弁護士の任期制、免許更新制、コンピューター化、事務官増員など、裁判のコストパフォーマンスを考えるという道から脱出口がないのか。枠組み、論点が最初から固まっている印象があるがどうか。

(洞けい氏)いろいろな論点があり議論がやや混乱しているところもあろう。
 コストパフォーマンスについては、司法の場合、手続にのっとることが非常に重要であり、速ければよい、安ければよいということには必ずしもならない。ただ、御指摘の通り、司法についてもコストを意識する必要はあると思う。

(質問)行政改革も同じだが、コスト部分の説明が国民にない。モノを買うときは、パフォーマンスとコストの説明がある。司法改革制度について、国民の期待は、納税額を低くすることである。お金のかかる、組織が肥大化ないし縮小化する話について、納税者がコストを負担するというコストの議論がないままパフォーマンスの議論がある。シミュレーションをして、コストとパフォーマンスの選択肢の議論はしているか。

(洞けい氏)今の司法改革の議論は、当面のコストよりも、まず、司法が果たすべき役割を果たすような制度を議論している。その意味ではコスト増もおり込まれている。ただ、当面の初期コストがかかったとしても、司法制度の利便性が高まるのであれば、社会としてはコストが下がったというふうにいうこともできるかもしれない。

(7)司法と立法・行政の関係はいかにあるべきか

(質問)インターネットなどの技術は日進月歩で専門的な知識がでてくる。今の知識でよいのか。障壁をひくくしたら、理科系の人がいけるなどないのか。総選挙があったが、依存型の地域、自立できる地域がわかれた。法曹一元化の場合には、それを突破できるのか。今の日本のシステムを変えるにはどうすればよいか。

(洞けい氏)一票の格差は重要な話であり、司法が厳しく判断して良い。しかし、それ以外の問題について、司法が対行政、対政治で厳しい判断をすることは現実には難しい面もある。裁判官は司法試験を通り研修を終えたらなれる。そのような者が、本来政治の世界で解決すべき問題にどこまで踏み込めるかという問題はある。

(意見)法律やルールを作るのは立法または行政の役目であり、司法はルールを用いて淡々と裁くものだとの意見だが、法律やルールというものは、機械的に使えるものではなく、それを用いて白黒をつける際には必ず判断を要するものだ。法があってもどう判断するか、これが司法の大きな責任であり、司法の判断の積み重ねがさらなる判断の基礎となる。現実には、法律がないから問題というより、法律の運用や解釈が硬直的だとか時代に合わないということが問題となるのではないか。

(8)裁判官・検察官の心証形成の相場はどうなっているのか

(質問)裁判官は判例を重視するのだろうが、判決を下すにあたっての自分の価値観をどのように形成するのか。よく刑事事件でも相場があり、1人殺しても死刑にならないなど、相場に頼っている面があるように思われるが、事件によっては、「やはりおかしい」というようなものもあるように思われる。

(洞けい氏)ある程度の期間、刑事裁判を担当していると、自分の中で量刑基準が出来てくる。これは相場にすぎないといわれるとつらいが、現場の積み重ねにはそれなりの重みや実際的な妥当性があるのだと思う。
 日本の社会は、行政、企業も同じと思うが、平等意識が強く高い。これが違うと大きな問題になるので、実際のところ「相場」的発想がないかといわれれば、あると思うといわざるを得ない。

(意見)検察現場でも、求刑基準や相場で決めているところがある。これは、全国同じ基準で裁かれることになるので、法の下の平等の観点から望ましい面もあるが、実務に携わる個々人の価値観を反映させるのを難しくしているし、量刑を庶民感覚・国民感情から離れた画一的なものにしているのではないかという反省を持っている。庶民感覚からすれば当然死刑になるべき事案について、前例に照らして死刑判決が得られない可能性があること、そうなれば控訴しなければならないということなどを考慮して、無期懲役を求刑しているというケースがあるように思う。現在の刑事司法で、庶民感覚・国民感情から最もかけ離れているのは、量刑ではないか。ただ、先日、5年求刑で4年の実刑判決だったのにあえて控訴した業務上過失致死の事件が新聞報道されていたように、相場にとらわれない柔軟な発想をするように検察の現場も少しずつ変わってきている。

(質問)死刑で求刑して無期ということなら控訴するのか。

(意見)公益の代表者としてあらゆる観点から検討し、死刑が相当と考えたのに裁判所に否定されたということは、10年求刑が6年になったというような場合とは質的な違いである。メンツではないが、公益の代表者としての使命感から、控訴すべきと考えるのが当然だし、一般的であるように思う。

(9)ロースクール構想の目的

(意見)ロースクールについて、人的拡大の文脈で話題になるが、家庭裁判所裁判所調査官として違う視点で述べたい。日本人は変わってきている。昔の日本人のエリートは他者志向で、未来志向であった。今のエリートの層は、自己志向、現実志向で、質的な日本人の変化が見られる。中から見ていると、裁判官はそういう点で、新しく入る若い裁判官には不安であろう。その解消する一つの方法として、母集団の拡大を考えたのではないか。
 検察も霞ヶ関も同じだろうと思うが、人の質的な変化が起こってきている点は否めない。子どもは減るし、人の能力は正規分布しているので、一部をとりあう構造になる。その点で、ロースクール構想、母集団を広げる構想が出てきたのだと思う。

(意見)母集団拡大ということもあるかもしれないが、今の司法試験は、予備校が繁栄し、大学の講義に出ずに、予備校の教える考え方を暗記して同じような答案を書いて合格するという風潮がある。それもあって、法曹になる人達の中に、法的に物事を考える力、ディベートし相手を説得する力、自ら調べて専門的分野に対応する力など法曹として本当に必要とされる能力を十分に身に付けていない人が多くなっているのではないかという反省から、真に求められる法曹を養成するための手段として、ロースクール構想が出てきているように思う。
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