行政の将来を考える会

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第45回例会「日本のメディア改革の道ー市民社会を展望して」
(朝日新聞論説委員・藤森研氏)
10月25日(水)の行政の将来を考える若手の会第45回例会では、『日本のメディア改革の道−市民社会を展望して』をテーマに、朝日新聞論説委員の藤森研氏を講師としてお招きし、意見交換を行ったところ、主要点は次の通りです。

1.藤森氏講演(日本のメディア改革の道−市民社会を展望して)

(1)はじめに

 私(講師:藤森氏)は朝日新聞社の社会部育ちで司法を中心に担当して来たが、市民が近年マスメデイアに対し厳しい見方をする様になって来ていると仕事を通して実感している。振り返って見ると、日本では戦後50年たったあたりから世の中が随分変わって来たと思うが、80年代に被疑者に対するメデイアの人権侵害問題が広く提起されて以来、市民のマスメデイア観も随分変わって来ている。戦後長らく市民と国家権力との関係において、新聞記者を基本的に市民側に立っているものと位置付ける傾向があった。また、その様な位置付けをベースに新聞記者の荒手の取材・報道手法を市民も相当程度許容していた面もあったのではないか。ところが最近は、『この様な荒手の取材・報道手法によってマスメデイアは市民に暴力を振るっているのではないか?』という様な、市民のマスメデイアに対する不信感がつのって来ている。マスメデイアは市民に対立する権力であるという議論すら出て来ており、取材・報道の現場でも『それではどうあるべきか?』という問題意識が強い。

(2) 市民主権の時代

 95年頃から 『国民主権の実質化』とも言うべき動きが顕在して来たと思う。私はこれを『市民主権の時代』 と呼んでいる。日本でも戦後、新しい人権や主権の具体化策が徐々に発見されて来たが、その様な新たに『発見』された人権や主権が、9 0年代になって市民による実際の行動を伴って一気に広がって行った。具体的には例えば以下の通りである。
市民オンブズマンによる情報公開要求・実現の動き。
新潟の原子力発電所に関する住民投票運動や御嵩産業廃棄物問題に対する同様の活動。
阪神大震災被災地でのボランティア活動。
NPO法などの動き。

(3)代議制から直接制へ(例えば住民投票)

(イ)本当の意味での民主主義がなかなか根付いておらず、とかく選挙の時だけの民主主義(間接的主権行使)となりがちだった日本でも、この様に地域問題、身近な問題等への市民の直接行動(主権行使)が選挙時以外にも見られる様になって来た。政治家や行政をあてにしてばかりでは解決できない問題を市民自らが解決しようとする、『代議制』から『直接制』へのシフトと言うべき動きである。こういった市民の直接的主権行使は社会のあらゆるシーンで頻繁に見られる様になって来ている。

(ロ)社会生活の中でも最も高度な専門性を求められる司法や医療の世界もこの例外ではない。日本の医療や司法の世界では、『高度に専門的世界は専門家を信頼して任せてくれれば良い。素人が口を差し挟むべきでは無い。』という姿勢で今までやって来たが、市民による『直接制』の時代にはこの様な尊大とも言うべき姿勢はもはや通用しない。医療サービスではひたすら医者の善処をお願いするだけだった市民が、今はインフォームドコンセントを当然の前提として医者に要求している。医者の方も市民主権の時代にあってはインフォームドコンセントを自ら進んで徹底して行わなければ、自己の立場を守る事すら出来なくなって来ている。医療の保守的体質も変わって来ている。極端な言い方であるが、これまでは『100人活かすには2〜3人死ぬのは仕方が無い。』という様な考え方が医療の現場にあった。その様な考え方がもはや通用しない。

(ハ)日本の社会では医療と並んで最も高度な専門性を求められて来た司法の世界も、民事裁判では当事者(原告、被告)は実質的にかなり蚊帳の外に置かれ、刑事裁判で被害者、遺族は全く蚊帳の外で、司法関係者のみにより処理される傾向があった。しかし最近はこの傾向が変わりつつある。司法制度改革の中でも近時陪審制が検討される様になっているが、市民による司法への関与の一貫として位置付けられるのではないか。

(ニ)医療や司法の 『代議制』 が崩れつつある背景として、当然の事ながら市民側の実力向上がある。例えば、高校進学率は90%、大学・短大進学率は40%をそれぞれはるかに越えて来ており、市民は物事についての判断・分析能力を向上させている。また、インターネット等情報技術の発達により、市民の情報収集力は近年格段の進歩が見られた。この様な市民の判断・分析能力、情報収集力の向上を背景に、マスメデイアの世界も医療、司法の世界同様『代議制』 が崩れつつある。マスメデイアに対する市民の批判・不信がかつて無いほど高まっているというのも、マスメデイアという『情報代議制』の崩壊ある意味で当然の流れである。マスメデイアの世界に身を置く者は、戦後の『代議制』の時代に市民との蜜月関係を経験しているだけに、この様な批判・不信を前に当惑したり、不当な物だと憤る向きもあるが、市民主権社会においてはむしろ健全な動きとして批判を正面から受け止めるべきであろう。

(4)マスメディアへの批判・不信

(イ)市民によるマスメデイアへの批判・不信はかつてないほどに高まっているものの、全面批判では無く、応援したい気持ちや利用したい気持ちも混ざり合っており、マスメデイアへの市民の思いは複雑である。この複雑さも、一事が万事と判で押した様な考えをするのでは無く、ケース毎個別にマスメデイアを分析・判断する姿勢が市民に根付いて来ている現われと考えられようか。

(ロ)ともあれ世間的影響力・地位がある人も、市井の庶民にも、マスメデイア批判がかつてない程高まっている事については共通しており、特にマスメデイアによる人権侵害に対する被害意識が強い。この様な市民側の意識を背景に公権力側からマスメデイアを規制しようという動きも強まっている。一部には市民側が公権力に対して報道被害防止のための報道規制を積極的に求めているケースもある。報道被害を救済・防止しようという運動は市民、公権力の双方から活発に行われており、このための実質的な検閲、報道の停止等さえもが議論、検討されている。

(ハ)しかしこの様な公的規制も度を過ぎると、市民の知る権利や言論の自由に制約が加えられる事によってそのつけは市民に回って来るという事になりかねない。戦後大きく変わった事もあるし、意外と変わっていない事もあるが、日本における民主主義は欧米に比べると市民社会の歴史が浅いが故になお未成熟な面も強い。表現の自由や知る権利に制約が加えられかねない報道規制は、日本にもっと本当の意味の民主主義を根付かせる上で、やはり由々しき事態である。

(ニ) 『メデイアは在野性が過ぎ、公権力を批判する傾向が強すぎる。』とのメデイア批判が公権力側からなされる事が多い。私は権力分立に資するのがメデイアの一つの大きな役割だと思っているが、本当の意味での民主主義定着が欧米に比べてまだまだな日本では、『第四権力』などとも呼ばれるメデイアはどちらかと言えば在野寄りのバランスでちょうど良いと思っている。

(5)メディアの進むべき方向

(イ)若干メデイア側の立場としての自己弁護的な話しになってしまったが、メデイアに対する市民側からの不信・批判は前例が無い程高まっているのが現実である。この様な不信・批判に対応し、日本のメデイアが市民主権の時代により相応しいものに自己改革して行く必要がある。

(ロ)具体的には以下の通りの対応が必要と思う。
これまでの様にメデイアが一方的に市民にアクセス、情報提供するだけでは無く、市民からのアクセス、市民との双方向性を確保、活用し、より市民に根ざした存在となる。市民側からの問題提起等の場をメデイアが積極的に提供する事自体が、民主主義や市民主権を根付かせる事にも寄与する。
例えば記者クラブの改革は始まってはいるが、もっと改革スピードを上げるべきである。記者クラブは、ある面で密室性や『代議制』という時代遅れのモデルの象徴であり、身内での情報囲い込み、独占を行っている。市民主権の時代には当然の事ながら情報公開・共有こそ目指すべき方向という姿勢でのぞむべき。
メデイアが情報ナビゲータの役割、分析者の役割を果たして行く。リアルタイムで情報洪水の様に次々入って来る事実、ニュースを整理し、見解を示すという様な役割はジャーナリズムがさらに果たして行くべきであろう。但し、これは方向感や解釈方法を市民に押し付けるのでは無く、市民の使い勝手により根ざしたものとなるべきである。
メデイアによる人権侵害が裁判以外の方法でも救済されるべきであり、そのための制度を確立すべきだ。このための方法論、『メデイアと市民評議会を提言する。』と題して私は昨年11月号の『世界』 に共同提言した。もちろん裁判での救済も併用すべきだが、現実問題として時間がかかるし当事者にとって負担が大きすぎる。

2.質疑応答

(1)質問:公権力に対する野党性というベースラインをメデイアが重視すべきであるというのは疑問がある。その様なベースラインを正当化する理由として、日本で民主主義が根付いておらず、市民が自立していない事を挙げておられるが、日本では民主主義は根付いていると思うが。

講師:残念ながら日本ではまだまだ民主主義が本当の意味では根付いていないし、市民が公権力から自立し切っていないと思う。地方では町や村のご本家の意向には反対できないとか、反対したら地域コミュニティーから仲間外れにされるという事実はまだまだある。また景気対策の公共事業等を“お上”に期待し依存するという体質は根強い。これらの卑近な事例では長野県知事選挙がある。長野県では最終的に旧体制を否定した田中氏が当選したからまだ救われたが、元副知事の各種締め付けや、締め付けに正面からあからさまに反対する事の困難はおよそ民主主義的とは言えない。

(2)意見:メデイアが情報ナビゲータの役割、分析者の役割を果たして行くということを、これからのあるべき姿として提示なさったが、大衆がメデイアに望むのは『事実を正確迅速に伝える事』 であり価値判断・分析は私たち自身が行う。戦前の軍国主義から戦後の占領政策、現在のいわゆる戦後民主主義にいたるまで価値観は変遷してきたが、メデイアはその時々の風潮を推奨する論調で大衆をミスリードしてきた事実がある。変な正義感や使命感をもとにした報道をメデイアにして欲しくない。公平で正確な報道こそがメデイアが尊敬され生き残る道ではないか。それでもメデイアとして特定の主義主張をやるならば、ベースとなる主義を明らかにした上で、一貫性を持ってやって欲しい。

講師:変な使命感や啓蒙活動を標榜する事は私も反対だ。そうならない様にした上で見解、分析等を打ち出して行きたい。

(3)意見:メデイアと市民と公権力がお互い批判・牽制しながら緊張関係を持って切磋琢磨して行くのが良いと思う。

(4)質問:今の世論や今日の出席者からは、『メデイアは横暴な上、力を持っている。』という意見が相次いでいるが、私(メデイアの世界で仕事をしている者)はメデイアの力がむしろ衰えていると思っており、またこれを由々しき事態だと思っている。メデイアは自信喪失しており、慎重になりすぎ、予防線を張りすぎているのではないか。大新聞の記者もしょせん組織人であり、組織人としては保身のためには慎重になさざると得ないところもあるのであろう。組織ジャーナリズムはどうなって行くのか?

講師:昔に比べるとメデイアの影響力は強まっているが、皮肉な事に記者一人一人の力量は落ちているのかもしれない。昔の記者はインタビユーする前にインタビユー相手の著作等をよく読んだり、経歴等を頭に入れておく事が常識だったが今はそういう事ではかならずしも無い。『他社の記者がいるところで質問するな。そんな事をすると競争相手に手の内を見られる。』などという風潮も強まっているが、これも徹すると記者会見にならなくなってしまうという馬鹿馬鹿しい事態まで生じている。韓国の一部新聞は編集局長公選制である。ドイツは組織に属していても記者は個人として独立を保証される『内部的自由』 を追求している。こういった事例は日本の組織ジャーナリズムのあり方を考えて上で参考になるかもしれない。日本ではメデイア各社内での議論(あるべき姿を模索するための)が減っていると危惧する。

(5)質問:政府、与党内で報道は今なら取り締まれるという雰囲気があると思う。イエロージャーナリズムと質の高いジャーナリズムは規制があるとしても区別されるべきでは?一律に論じられるべきでは無いと思うがどうお考えか?

講師:重要な観点だ。ともすると“質の高いジャーナリズム”とイエロージャーナリズムを区別し、後者のみをより強く規制しようとする判断に傾きがちとなる。しかし両者を明確に線引きする事は不可能であり、両者を区別した上でのイエロージャーナリズムのみの規制というのは現実性が薄い様に思う。また区別の判断も恣意的になりかねない。週刊誌のフリーライターは下請けで無理してやっている面がある。プロダクションも下請け孫請けでやっており苦しい立場にある場合もある。だからという事ではないが、イエロージャーナリズムでなければ書けない事実、本質もある。“質の高いジャーナリズム”とイエロージャーナリズムはそれぞれ担っている役割が異なっていると理解すべきであり、両者の貴賎を論ずべきではないと思う。

(6)意見:事件、事故等のセンセーショナルな記事も良いが、もっと明るい記事も増やして欲しい。読む人の心が豊かになったり、触発されやる気が出て来る様な積極的記事も書いて欲しい。

(7)意見:メデイア各社で2つ問題があるのでは。一つは人材、一つは経営・組織。人材について言えば、就職の段階で見ると給料が良い、終身雇用が徹底している。そういう人が本当に変化を敏感に感じ取って記事にする事ができるだろうか?担当の記者が『取材、記事は影響力を持っている。』 という事を本当に理解できているかが疑問。理解できていたとしても、記者からデスクや編集長に上げる段階で内容や主張に迫力が無くなっているのでは。
 経営で言うと、新聞はこれから何を収益源と考えているのかが良くわからない。インターネットで相当の情報が取れる時代に天気予報記事等をいつまでやるのか?また、各社の差別化がもっとあっても良いのではないか。コンテンツの質、Valueを新聞・テレビももっと吟味するべきとも思う。

講師:昔の記者は『新聞記者にしかなりたくない。』という1本槍の人が多かった。これは悪く言えば視野が狭い偏屈者である。しかし今は、産業界も選択肢に入れた上で記者になっている人が多くなっている。むしろそういう方が記者としてベースが広いのではないか。取材する上では当然視野は広い方が良い。
 経営問題についてだが、今後日本のメデイアがどう変わっていくかというのは正直言って誰にもわからない。日本のメデイア経営上の問題は、経営陣がほとんど記者出身である事であろう。経営のプロがいない。但し、メデイアとしての一貫した主義主張を維持していく上ではこれも良い面もある。均質的なセミ・クオリティー・ペーパーがこれだけ普及している国は世界に他に例が無い。毎日新聞は経営悪化した際に都市紙化する事も検討したと聞くが、あきらめている。全国紙であるが故の高い広告収入がやはり魅力的だったという事か。日本社会は全国的に平準性が高いという事も影響していると思う。

(8)司会者総括:

(イ)本当の意味での民主主義が日本ではまだまだ根付いていないとの講師指摘はうなずけるものがある。本当に民主主義が根付き、市民が“公権力”から自立しているのであれば、メデイアによる人権侵害からの救済に公権力の役割を期待するという発想は安易には出て来ないはずだ。また『メデイアによる人権侵害』なるも のも、実は市民自身が、『新聞、テレビという大マスメデイアが誤った事を伝えるはずが無い。』と盲目的にメデイアという権威を信じ込んでいるという、自立性の無さがもたらしている2次災害であるという面もあるのではないか。この点、『メデイアの報道内容はおうおうにして誤っているものだ。報道は事実認識・分析の際の参考としては大いに活用できるが、絶対的真理を示すものでは無い。』という当たり前の冷静な認識を市民側が持つ必要もあろう。

(ロ)民主主義や市民の自立性に関するこの様な日本の状況を踏まえれば、公権力と市民との関係(対立軸?)の中でメデイアがどちらかと言うと市民側の立場をとる事により権力分立上のバランスをとるべきだとの講師の考えも意義あるものと考えられるし、実際その様な立場をとるメデイアが1社だけではなく、多数存在する事は不可欠であろう。但し、日本のメデイアすべてがその様な立場をとる必要があるのか?またとらなければいけないのか?という事になると疑問が残る。本当の意味での市民主権社会においては、市民の報道についての選択の幅も広くあるべきであろう。俗っぽい言い方をすれば極左、中道、極右に至るまで幅広い選択があってしかるべきである。そういった幅広い選択肢の中から、市民の多数に受入れられるものと、少数にしか受入れらないものとが、市民自身の選択によって自ずとはっきりするはずである。成熟した民主主義社会、市民主権社会は多様な見解が並存する事を受容するものである。

(ハ)それにしても市民運動というそれぞれの特定課題に限定した動きに限らず、首長選挙、国政選挙というより包括的な次元でも『市民主権社会の到来』を実感させる動 きが近時頻発している。一人一人の市民が当事者意識をもって、出来る事から主体的に地域社会、国、世界の各次元の課題に取組んで行けば、今まで以上に自立した市民による、より質の高い民主主義が日本で実現するであろう。悲観する必要は無い。この点日本の未来は明るい。

(文責:安藤秀則(日本興業銀行))
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